ハクキンカイロ株式会社

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HAKKIN Museum - 03 100 years of progress

100 years

おかげさまでハクキンカイロ株式会社は2023年4月10日に創業100周年を迎えました。これまで支えていただいた世界中のユーザーの皆様、販売先様、仕入先様をはじめとした全ての関係者の方々の長年にわたるご支援、ご愛顧の賜物だと思っております。100周年にあたり心より厚くお礼申し上げます。

愛され続けて100年

カイロを通して培ってきた触媒技術で新しい未来の可能性へ挑戦したい。

私たちハクキンカイロの夢はこれからも続いてまいります。

ハクキンカイロ100周年記念 100年のあゆみ - 社史動画

100周年動画では紹介しきれなかった
三代目社長 的場恒夫のインタビューを
記事としてまとめました。

ハクキンカイロの開発秘話

創業者の的場仁市は1920年頃にロンドンに出張していた。その時、街中で不思議なものを見つけた。それは円筒形の丸い形をしており、蓋を取っただけでパッと赤く熱くなるライターでした。
「なぜ蓋を取っただけで熱くなるのか」
好奇心旺盛だった仁市が調べていると持っている手がだんだん熱くなってきた。
その時ひらめいた。「これはカイロになるんじゃないか」

そのライターを日本に持ち帰り、帰国後は寝食忘れ、日夜研究開発に没頭しました。
そして3年後、やっとカイロの原型が完成しました。その後、特許を出願し、1923年(大正12年)4月10日に「矢満登商会」として創業しました。

ハクキンカイロ創業者の的場仁市
的場仁市 Niichi Matoba

ハクキンカイロ株式会社の創業者。
1923年(大正12年)に「ハクキンカイロ(白金懐炉)」という名称で発売した。

ハクキンカイロ誕生のエピソード

ハクキンカイロができた日のエピソードを祖母はこんな風に話していました。

「夫は帰国後、自宅近く小さな小屋を借り、寝食を忘れ昼夜をとわず研究開発に没頭していました。そんな夫が心配で私は毎日、お昼にお弁当を届けがてら様子見に行っておりました。
来る日も来る日も試行錯誤の連続でした。

そして3年目の寒い冬のある日、いつものように弁当を届けに小屋に行くと、夫が飛びだして
「できたで。これ持ってみぃ。温かいやろう?」と言ってカイロを差し出しました。

その温かさに感激し、私たちは道端で座ったまま抱き合いました。気づけば辺りは薄暗くなり、夕暮れに雪がチラチラ舞い始めていました。」

初期のハクキンカイロ

戦争中の事業

戦時中日本国内は非常に厳しい状況でしたが、国の要請があり、また、極寒の中で戦っている兵隊さんの非常にお役に立つということで、慰問袋の中に、必ずハクキンカイロを一つ入れて送るということになり、カイロの生産は増えていきました。

戦時中のハクキンカイロ

また、当時の飛行機や戦車は、寒い時にエンジンが凍ってしまい、いざ発進の時にかからないということが度々あったようです。それに対応するために大型のカイロ作ってほしいとの要請があり完成して出荷が増えました。1940年、海軍に艦上戦闘機「報国356号 白金号」、陸軍に戦車「愛国186(白金)」をそれぞれ献納しました。

報国356号 白金号
愛国186(白金)

1945年大阪で大空襲がありました。その空襲で私どもの本社は全部焼失してしまいました。
幸い、淀川区と新大阪駅の近くあった工場が焼失を免れたので、本社機能をそちらに移し、翌年から社員30人で再出発しました。「ハクキンの灯を消すな」ということで一丸になって結束して頑張りました。

海外展開

2代目社長の時代は、輸出が好調でした。輸出をするなら海外でも通用する英文のブランド名にしなければといろいろ考えましたが、結局は商標の孔雀を英文にした「ピーコック」にしたのです。

海外展開は台湾から始まり韓国、イギリス、そしてヨーロッパへと広がっていきました。
ヨーロッパは非常に環境意識の高い国が多かったので、使い捨てより繰り返し使えてゴミにならない私どものカイロが受け入れられました。また、良いものを長く大事に愛着持って使うという彼らの習慣と経済的で非常にエコでクリーンな我々のカイロは相性がよかったのです。

海外ブランドPEACOCK

広告展開

高度経済成長の時代は、テレビ、洗濯機、冷蔵庫など三種の神器と言われた電化製品の時代に入っていきました。ハクキンカイロもそれに伴って売れたわけです。その頃ちょうど朝日放送とか、日本文化放送、新日本放送、中部日本放送など民間のラジオ局が開局しました。それを契機にラジオ宣伝にチャレンジすることにしたのです。

ラジオ局は開局したばかりで、私どもは第1回目のラジオ広告を提供したわけです。また、朝日、毎日、読売、産経などの全国紙にも広告を打ち、雑誌や交通広告などにも出稿しました。それまでのカイロは医療器具として、老人や病人が使用するイメージが強かったのですが、宣伝広告に力を入れたお陰様で若い人が使うようになって、冬のレジャーやアウトドアの分野で人気が高まっていきました。

その後、テレビが主流になりテレビ宣伝に切り替えました。その時は非常に有名なタレントを起用して2〜3年ごとにタレントを変えて広告を提供しました。

今も人気の「ハクキンおじさん」イラストは、この頃登場しました。その頃にちょうど南極観測隊の出発があり、私どものカイロが携行されるということがニュースで取り上げられました。零下40度の南極でもハクキンカイロは使用できるということで品質の面でも信用が高まり、一挙に国民的な製品に成長したわけです。

コンパクト型ハクキン懐炉
コンパクト型ハクキン懐炉パッケージ

聖火輸送の歴史

1964年(昭和39年)、東京オリンピックでは聖火をカイロの中に入れ、飛行機に持ち込んでギリシャから東京まで聖火輸送をいたしました。私どものカイロは火ではなく、熱になってますので、機内に持ち込めるわけです。

実は、この時の聖火輸送ではハクキンカイロは主役ではなく脇役だったんです。
主役はトーチに入った聖火でした。こちらがメインで万一それが消えた場合に備え、私どものカイロが種火でした。つまり、スペアとしてのお役目でした。

1964年の聖火輸送

その次が長野オリンピックのちょっと前の1985年夏季ユニバーシアードの聖火輸送。この大会では『科学の火』と『平和の火』という2つの聖火を使いました。それぞれカイロに入れて上空80mの飛行船からラジコンパラシュートで会場の直径2mの円の中に落下させる計画でした。

地上100m上空は風がかなり吹いているし、ラジコンでパラシュートをしっかり操作できるかわからない状態でしたが、2つとも予定地点に落とせました。そのカイロから無事に火を起こし聖火リレーをしたということがありました。

もしもあの時、上空から落とした聖火が消えていれば、会社も消えていた。手に汗握る緊張の瞬間でした。それが成功して、みんなで万歳と喜んだ記憶はいまでも鮮明に覚えています。

1985年夏季ユニバーシアード

そして、あの長野冬季オリンピック(1998年)です。この時は私どもは大きな役割を担いました。
ハクキンカイロ以外他のスペアはなく、カイロだけに聖火を入れて、ギリシャから長野まで聖火輸送を行いました。ここで完全にハクキンカイロは聖火輸送の主役になったのです。

長野冬季オリンピック(1998年)

1964年の東京オリンピックでは脇役でしたが、長野オリンピックで主役に躍り出て、それが後々につながります。そういう実績が認められて「東京オリンピック2020」の時も大事な聖火の種火としてお役に立ちました。

実はこれは今だから言えることですが、当時は聖火輸送を弊社が担当することは誰にも知られていなかったのです。と言いますのは、国際オリンピック委員会からオリンピックが終わるまではブランド名を出さないでほしいと強い要請があったのです。

※長野オリンピック、東京オリンピックでの聖火は、ハクキンカイロを使用し航空機で運ばれました。航空機による聖火等の輸送に際しては「国土交通大臣の許可」が必要であり、ハクキンカイロを使用すれば無許可で輸送できる訳ではありません。民間の航空機の機内には点火されているカイロはもちろん、点火されていなくても、一度でも使用されたカイロは持ち込むことはできません。また、燃料のベンジンも持ち込みを禁止されておりますのでご注意下さい。

聖火輸送の歴史

創業当時の名前は矢満登商会でした。この社名からは、何をしている会社かわかりづらくもっと知ってもらうためにCI(コーポレートアイデンティティ)を行いました。

その頃にはハクキンカイロという名前の知名度はかなり高かったので、これを社名にすれば知名度も100%になるということで、思い切ってハクキンカイロ株式会社に変更したわけです。
その効果は抜群で初めて名刺を渡しても、「あー。ハクキンカイロやっている会社ですか。」とすぐにわかっていただけるようになりました。

私が3代目を引き継いだ頃、ハクキンカイロの社名は、知名度は申し分がないのですが、それが逆にカイロだけに捉われる結果になっていました。「今後はカイロに捉われない社名にしよう」ということで、思い切ってカイロを外し株式会社ハクキンに社名変更したわけです。

それまではカイロ一本でやっていましたが、健康産業としてやっていこうといろいろと開発したわけですね。しかし、参入はなかなか困難でした。また、社名を変更したからこそ気づいた「ハクキンカイロ」というネーミングの強さ。様々な経緯を経てハクキンカイロという社名でもいろんな製品を作っていける体制になったということで、もう一度社名を株式会社ハクキンからハクキンカイロ株式会社に戻したわけです。

ハクキンカイロ社屋

ハクキンカイロの永久保証

基本的にはハクキンカイロのフォルムを変えないというのは方針です。三角にしたり丸にしたりすることはありませんが、でも少しずつ変わっています。火口の部分はどれでもピシャっと合うように作っています。

私どもの商品は永久保証ですから、30~40年前のカイロを持って来られて「修理してください」と
ご依頼をいただくこともよくあります。一般的な会社の製品であれば古いモデルは「もう部品もありません」と言われて終わりですが、私どもは基本的には古い製品にも互換性を持たせるように製造しています。

だから、ハクキンカイロの一番の生命線の火口は1〜2年ごとに交換していただければ、もう半永久的に使用できる商品なのです。そういう面では、メンテナンスは徹底してると思います。50年以上も使った商品は、正直修理するよりも新しく買った方が安上がりなのですが、それをきれいにして、火のつくよう修理をする。

弊社の面倒見のよさを私たちのユーザーは知っておられます。おじいさん、おばあさんが使っていたとか、50年~60年使っている方もいらっしゃいます。こんなに長く使えるロングセラー製品は他にはないと自負しております。

触媒技術について

触媒技術は日用品から先端技術に至るまでいろいろなところに利用されています。
そして、私どもの触媒技術は実は大手企業さんなどいろいろなところで利用されているのです。

一例としては「加熱試験器」です。これは加熱試験器の検査をするための機器です。その中の火種に私どもの触媒が使われてるんですね。よくお宅のビルでも来ませんか?私どもでは触媒産業にも力を入れており、これからの新しい環境エ社長ネルギーの時代に即応し拡大していきたいと思っています。

加熱試験器

創業100周年を迎えて

創業100周年というのは、ひとつの通過点ですね。そしてこれから将来に向かって発展をしていくための出発点でもあるわけです。

まず今後、カイロの改良をより一層進め、CO2が一切出ないカイロに改良していきたい。ハクキンカイロはまだ完成されてはいないのです。欠点もありますし、弱点もあります。
それをなくすように、100年かかってこれですから。通過点であって、まだまだこれからですから。

もうひとつは、触媒技術です。環境エネルギー分野で活かしていきたい。これからは必ずクリーンなエネルギーの水素社会がやってくると思っているわけです。その時に私どもの触媒で、その水素を製造する水素製造触媒を開発して完成するというのが究極の目標です。これからの環境エネルギーの時代に即応した触媒産業を拡大していきたいと思っています。

そして一番大事なのは「奉仕の精神」です。この儲けを先に考えるんじゃなくて、奉仕の精神でハクキンカイロは世界の人々の健康福祉に貢献するというのが企業理念です。これは創業から変わっておりません。

当社にはスローガンがありまして、「未来・挑戦・ハクキン」
その通り未来に挑戦して発展していきたいと思っております。150周年、200周年まで後継者に引き継いで、これを実現して発展していくというのが今後の課題です。

ハクキンカイロ 社長 的場恒夫
HAKKIN Museum - 01 HAKKIN legend
HAKKIN Museum - 02 Olympic flame